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これは、電気学会電気/電子に関する調査委員会報告(2001年2月)として書かせていただいた原稿です。
猪瀬博教授へのインタビューは、2000年11月20日に予定されていた。その一月前、10月11日に、猪瀬教授は御自宅で突然倒れられ、そのまま帰らぬ人となってしまわれた。
筆者らは、まだ悲しみの底にあり、このような原稿を書く気持ちにはなかなかなれない。あまりにも偉大な恩師であり、インタビューでお話をうかがうのならともかく、恩師について語ることは、群盲象を撫づ愚を働くことになるばかりである。正直なところを申せば、筆者は、このインタビューの仕事を、当初固辞した。ただでさえ多忙の猪瀬教授に、またこのような仕事で時間をとっていただくのは申し訳ない、少しでも猪瀬教授の仕事は減らしてほしい、というのが、正直な気持ちであった。筆者は、若い助教授の頃、恩師の猪瀬教授に相談をしたことがある。学外で同時にひきうけている委員会の仕事が15種類くらいを越えてしまい、どうにも身動きがとれなくなってしまったため、何かの機会で猪瀬教授にお会いした時に、少し委員会の仕事を断ってもよいだろうか、とお尋ねしたのである。そもそも助教授に就任させていただくことになった時、猪瀬教授から、「自分のための勉強だけしては駄目だ。社会のために働きなさい。」とアドバイスされていた。筆者としては一生懸命やってきたつもりだったが、同時に15の学外の委員は限界に近いような気がしていたので、猪瀬教授も少しは減らせ、とおっしゃって下さるのではないかと甘く思っていた。しかし、猪瀬教授は、どういう委員を引き受けていますかと、ひとつずつお尋ねになり、そのひとつずつについて、その委員会の設立時の思い出や過去のエピソードなどをお話しになるのであった。ついに、どの一つも断ってよいとはおっしゃらなかった。直接どうしろとはおっしゃらず、ただ、それぞれの委員会の思い出を語られたのであるが、若い弟子や学生一人一人を常に一人前の紳士として扱われ、自分に厳しく他人に優しい猪瀬教授ならではの御指導であったように思う。不肖の弟子は、その後、御指導にそむき、学内外のいわゆる雑務を断ることしばしばであった。今回のインタビューについても、猪瀬教授が快諾されたとお聞きし、その昔の相談を思い出し、また叱られたような気がして、いったんは固辞したインタビュアーの仕事をお引き受けしたのであった。それにしても、そのような雑務の積み重ねが猪瀬教授の命を縮めてしまったのではないかという思いは禁じえない。電気学会も、電子情報通信学会も、情報処理学会も、文部省も、外務省も、通産省も、郵政省も、科学技術庁も、猪瀬教授でなくとももう一ランク下の人でもかまわないような仕事にまで、猪瀬教授を引っ張り出さないで欲しかった。もう少し猪瀬教授に時間をさしあげて、お好きな美術史の研究に時間を使っていただきたかった。そんなことを言うものではありません、という猪瀬教授の声が天国から聞こえてきそうな気がするが、弟子としては、そのような思いにとらわれてしまうばかりである。
猪瀬教授は昭和2年に東京でお生まれになった。徳川の御家人の家系で、江戸っ子である。小学校にあがられる前、お兄さまが急逝され、一人っ子になってしまった猪瀬教授は、箱入り息子のように育てられたとのことである。猪瀬教授は、美術がお好きで、その方面に進みたいと考えておられたそうである。戦時中の頃のことを、猪瀬教授の東京大学最終講義の講義録から引用させていただく。
「1941年の12月に大東亜戦争がはじまりました。一介の銀行員だった私の父が、真珠湾攻撃の例の軍艦マーチを聞きながら非常に憤慨をして、アメリカを相手にして戦争に勝てるはずがあるか、これで日本の国は滅びるんだ、お前は気をつけてこんな戦争で犬死しないようにしろ、といっていたのをいまでも覚えております。あのような時代でも、日本の中産階級は健全な精神をもっていたのです。私はそのとき半信半疑でしたけれども、戦局はどんどん悪い方向に向かって行きました。私はそれまでは大学では美術史でも専攻して、一生研究生活をしたいと思っておったのですが、高等科に進学するさい、理科に行ったほうがいいだろうという話になりました。非常に尊敬していた、当時三菱銀行の会長であられた加藤武男さんから、見たところ君は技術屋に向いている。やがて戦争になるだろうが、日本の国はこの戦争で負けるんだから、その後は技術でもって立国しなきゃいかん、君は命を大事にして、技術屋として大成しろ、ということを以前から強くいわれておりました。その当時は文科系だと徴兵猶予がない、理科系だと徴兵猶予があるということで、親戚一同からもお前は理科系に行ってくれないかといわれまして、方向転換したわけです。
高等学校では寮へ入りました。1943年の秋、寮の食堂の裸電球の下で粗末な夕食を食べておりましたときに、アッツ島の守備隊全滅のラジオ放送があり、続いて学徒出陣つまり文科系の人たちは全員出征というアナウンスがラジオを通じて流れてきました。やがて明治神宮外苑で壮行会が行われ、文科系の学生はどんどん徴兵されていきました。私はいまでも痛切に思い出すのですが、その放送を聞いたときには文科系の学生も理科系の学生も一瞬シーンとしてしまいました。私自身は文科系の学生たちの顔をまともに見ることができないようなつらい思いでした。というのは、私の心のなかに元来理科系に行く気がなかったのに、いろいろな事情から、結局命が惜しくて理科系を選んだという意識があったからです。幸い、私のクラスには一人も戦死した人は出ませんでしたけれども、寮で一緒に食事をしていた文科系の先輩のなかには何人も戦場に行ったまま帰ってこなかった方々がありました。われわれ戦中派は、だれもがそれぞれに自分は生き残りだという意識があるのですが、私もそのときに本当に痛切に、友人に対して会わす顔がないという気持ちがしたのをいまだにはっきりと覚えているのです。」「1945年の8月15日に戦争が終わりました。私の家も焼けましたし、東京はほんとに一面の焼け野原でした。東大からちょっと出ますと、向うに山の手線の電車が通るのが見えました。富士山も筑波山も全部よく見えまして、都心には日比谷公会堂が一つ焼け残っておりました。確かその翌年だと思いますが、今日出海さんが文部省の芸術課長になられて、今日ではすっかり定着しております芸術祭の第一回が、焼け野原のなかの日比谷公会堂で開催されました。私自身もその当時は戦争に負けて気落ちしておりましたけれども、日比谷公会堂に行って五流の家元のお能を拝見し、日本にはこれだけの立派な文化があると非常に感激しました。文化国家の建設が戦後の日本の国是のようにいわれはじめたころでしたが、これだけの文化があるならば、それをもとにしてまた日本の国は立ち上がることができるのではないかということで非常に元気づけられたわけです。その後いつのまにか文化国家の建設という国是はどこかに行ってしまいまして、所得倍増といったスローガンが横行し経済復興優先ということになりました。その後日本は今日に至るまで世界に冠たる金もうけ国家になってしまって、金もうけをする人はえらい人だ、金もうけをすることはよいことだという価値観が、今日までこの国の行動原理を支配しているように思います。しかしそれだからこそ外国からは、日本人は第二級市民だと思われているのです。日本という国は確かに戦争をやればけっこううまくやるし、モノをつくればいいものをつくる。金もうけもうまいようだ。しかし日本人の歴史を見ると、世界の文化とか宗教とか思想とか科学というものになに一つ重要な貢献をしたことがないではないかといわれたときに、なにも反論することができません。今日の日本は余裕もあるし力もあるのですから、これまでの金もうけ主義一筋という姿勢を見直し、初心に返って文化国家の建設を国是としてはいかがでしょうか。われわれはともかくとして、せめてわれわれの子孫が世界の第一級市民として遇してもらえるような努力をいますぐにでもはじめない限り、これからは金もうけをしようとしても何をしようとしても、世界中で壁につきあたるのではないかと思うわけです。」
猪瀬教授の業績は、枚挙に暇がない。受賞された賞も数限りない。弟子の誰一人としてその全容を語ることはできないであろう。しかし、猪瀬教授がなさってきたことは、すべて文化国家建設のための技術面からの努力であった、ということは言えるのではないかと思う。我が国で、いや世界でそれを成してきたのは猪瀬教授ただお一人であったと言っても過言ではないだろう。OECDの科学技術政策委員会議長などとして、猪瀬教授は、科学技術がなすべきことを世界に訴えてこられた。学術情報センター(現国立情報学研究所)を設立し、学術情報の収集、保存、流通の面から文化を支えようとされた。そのための重要な技術的な多くの発明もなさった。昨今のITブームにおいても、文化の議論が欠落していることを、猪瀬教授は憂慮されていたようである。
我々大学人に対しても、いわゆる競争原理の導入により、論文数を増やせ、特許を取得して売れ、学生を増やして授業料を稼げ、という圧力が増している。猪瀬教授は、我々弟子たちに常々、「10年かけてシステムインテグレーションの仕事をしなさい。」とおっしゃっていた。この原稿を書くために、猪瀬教授の最終講義録を読み返しているうちに、涙がとまらなくなってしまった。私たちは、日本は、世界は、間違った流れにとらわれていないだろうか。科学技術立国を声高に叫ぶ時、人々は文化国家を念頭に置いているだろうか。猪瀬教授の遺志を引き継ぎ、少しでも正しい方向に向かうよう努力したいと思う。
なお、猪瀬教授の最終講義録は、猪瀬博著「情報の世紀を生きて」東京大学出版会(1987年)に収録されている。技術大国日本の課題は、猪瀬博著「センター・オブ・エクセレンスの構築」日経サイエンス社(1990年)に詳しく述べられている。いずれもその表紙カバーは、猪瀬教授の奥様の美しい継ぎ紙の作品である。お子様のおられない猪瀬教授は、奥様を非常に大事にされていた。お年を召されても、いつも新婚夫婦のようであった。奥様の悲しみいかばかりか、計り知れない。あらためて猪瀬教授の御冥福を祈りたい。
2001年2月 堀 浩一(東京大学)
(このページの内容は2019年6月まで
http://www.ailab.t.u-tokyo.ac.jp/horiKNC/
に置いておりましたが、2019年7月1日に、ここに引っ越してきました。)
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